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イチロー選手、現役引退「大変幸せ」日米通算28年で4,367安打 !! ヘ(゚∀゚*)ノ

平成の時代も間もなく終わろうとしている最中、その平成の一時代を築き上げた一人の名プレイヤーが惜しまれながら現役を引退した。日米通算4,367安打の大打者、米大リーグ・マリナーズのイチロー外野手(45)=本名 鈴木一朗=が03月21日、東京ドームで行われた、アスレチックスとの開幕第2戦後に都内で記者会見し、現役引退を表明した。メジャー19年目となるプロ28年目の今季、キャンプで結果を出せずに決断したとし、記者会見ではこの日の大歓声に「あんなものを見せられたら後悔などあろうはずがありません」と語った。昨年05月に会長付特別補佐としてフロント入りした後、今年のキャンプで選手に復帰したイチロー選手。しかし、オープン戦から不振が続き、7年ぶりに日本で公式戦出場した03月20日の開幕戦でも1打数無安打、翌21日の2戦目も4打数無安打で途中交代した。交代の際に、両チームの選手に拍手やハグで迎えられる姿が「引退するのではないか」と波紋を呼んだ。だが試合後には「アメリカではよくある演出」などと話しており、引退説は消えたかの様にも一瞬思えた。しかし翌03月21日に事態は一転、米大リーグ・マリナーズの公式Twitterは、イチローの現役引退を発表。「野球で多くの夢を叶えられた。キャリアをスタートさせた日本で終えられる事を誇りに思う」というイチロー選手自らのコメントを寄せた。公式サイトが開幕第2戦の最中に、イチロー選手が引退する意向である事を伝えると、開幕第2戦も1戦目と同様、9番ライトでスタメンで出場。この日は、第1打席がファールフライ、第2打席がセカンドゴロ、第3打席が見逃し三振、第4打席がショートゴロだった。8回裏の守備に一旦就くも、監督から交代が告げられた。ベンチ前で、今季西武から大リーグへ移籍した、菊池雄星投手を始めとするチームメイトやスタッフに迎えられ、1人1人とハグを交わして、ベンチに下がった。対戦相手のアスレチックスの選手も立ち上がって拍手を送っていた。イチロー選手の現役生活が終わりを迎えた。試合終了後の記者会見では、これを念頭に置いて、「あんなものを見せられたら、後悔などあるはずがありません。最後にこのユニフォームを着てこの日を迎えられた事、大変幸せに感じています」」と振り返った。また試合後の5万4,000人の観客の拍手と大声援が20分以上も続き、グランドに再び呼び戻されてファンに最後の別れを告げた時のパフォーマンスについて「日本のファンの方の熱い思い。それを表現した時の迫力は、今までに想像出来なかった事。これは最も特別な瞬間になります」とこの様に述べた。イチロー選手は愛工大名電高校から、平成04(1992)年にオリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で外野手として入団。平成12(2000)年まで同チームに所属し、首位打者、ベストナイン、ゴールデングラブ賞など数々のタイトルを獲得した。日本最後の年となった、平成12(2000)年に打率.387の自己最高打率を記録し、球界初の7年連続首位打者に輝いた。平成13(2001)年にポスティングシステムを使って米大リーグに挑戦し、マリナーズに入団。米大リーグでも首位打者、盗塁王、ゴールデングラブ賞など数々のタイトルを獲得。ヤンキース、マーリンズを経て、平成30(2018)年にマリナーズに復帰した。マーリンズ時代の16年には日米通算4,257安打を達成し、これがギネス記録に登録された。国際大会での活躍も印象的で、平成18(2006)年、平成21(2009)年のWBCに出場し、日本の2連覇に貢献した。日本人野手として初めてメジャー挑戦した平成13(2001)年・マリナーズでシーズン242安打の打率.305.、8本塁打、69打点、56盗塁でアメリカン・リーグ最優秀選手と新人王を同時受賞。平成16(2004)年にはメジャー新記録の262安打。メジャーデビューから10年連続で200安打以上、ゴールドグラブ賞、オールスター戦選出をも果たした。今後の引退後の過ごし方については「ゆっくりしたいとかは全然ないんですよ。多分動き回っています」とコメントし、加えて日本の球団でプレーする意思はなかったのかという質問に対しても「なかったですね」と、キッパリと言い切った。また『現役選手を終えたら、監督や指導者になったり、タレントになったりしますか?』質問に対し「あんまりシンプルじゃないですね(会場笑)。監督は絶対無理ですよ。絶対がつきますよ。人望がない。本当に。人望がないですよ、僕。それぐらいの判断能力は備えているので。」とキッパリと答えた。(^-^)/ イチロー選手は最後に「辛い事、シンドイ事から逃げたいと思うのは当然の事なんですけど、でもエネルギーのある元気な時にそれに立ち向かっていく、その事は凄く人として重要な事なんではないかなという風に感じています」との言葉で締め括り、会見は終了。笑顔も交え、最後はイチローらしさを終始みせていた。日米通算で4,367本。プロ28年間、打って、走って、守って多くの感動を多くの人々に与え続けきたイチロー選手。正に平成の一時代を築き上げた名プレイヤーが静かにバットを置き、現役生活にピリオドを打った。しかしその5年後には、米国野球殿堂の投票対象者となる。これまでにも日本人初のメジャーリーガーである村上雅則氏や、平成07(1995)年にメジャーの扉を開き現代の日本人メジャーリーガーの『パイオニア』となった、野茂英雄氏でも成し得なかった日本人初の『米国野球殿堂入り』を果たすのか…。現役引退の後もファンにとっての楽しみが待っていると言っても過言ではないだろう。(^-^)/

JR一ノ関駅・東北新幹線ホーム発車メロディーに『N.S.P.』のヒット曲、『夕暮れ時はさびしそう』地元ゆかりで採用へ !! (((o(*゚▽゚*)o)))

年度末の03月。この時期は何かと各分野に於いては、新年度を前に異動時期とも重なる。また組織面に於いては新年度に備えて改編の準備等何かと気忙しい月でもある。03月となればやはり旅行者にとって気になるのが、JR各社の列車ダイヤの改正であろう。今回のダイヤ改正で新しく誕生するのもあれば、役目を終えて終了及び廃止、移管、縮小等、悲喜交々であるが、今回は明るい話題の紹介をする事にしよう。(^-^)/ 岩手県一関市。人口凡そ12万人弱を要し、仙台藩祖・伊達政宗公の正室・愛姫(めごひめ)の菩提・田村家旧一関藩の城下町として栄え、県内に於いては2番目に大きい街で、岩手県南部の玄関口ともなる街である。(^-^)/ 東京駅から東北新幹線に乗車して北へ向かう事13番目。岩手県に入って最初の駅が、ここ一ノ関駅となる。東北本線を始め大船渡線への接続を持ち、内陸や沿岸部を繋ぐ交通の要所として栄え、また栗駒山麓観光、世界遺産・奥州平泉、厳美渓(げんびけい)、猊鼻渓(げいびけい)等、観光名所の出発地点玄関口ともなる駅である。そしてここ一ノ関駅に於いて、いよいよ新しい歴史の扉が、間もなく誕生する事になる。ヽ(゜▽、゜)ノ 先般02月26日付け、JR東日本盛岡支社のホームページと一関市役所のホームページに於いて、JR一ノ関駅・新幹線ホームの発車メロディーに、今月03月20日から地元所縁のフォークグループ『 N.S.P.(ニュー・サディスティック・ピンク) 』のヒット曲『 夕暮れ時はさびしそう 』が採用されたと発表した。一関市が専門業者に依頼して30秒のメロディーにアレンジし、一関市拠点駅推進協議会と共にJR東日本側に導入を働き掛けて来た。独自メロディーの導入は、JR東日本が岩手県を04~06月に重点販売地域とするのに合わせて取り組んで来たが、今回その要望が実り導入に辿り着いた。試行期間は、03月20日から06月30日までの期間に実施し、同駅で一日上下40本の新幹線が出発する度に流される。それ以降の07月01日からの継続に付いては、駅利用者の反応を踏まえて検討するとの事だ。『 N.S.P. (エヌ・エス・ピー) 』は、岩手県出身の三人組のフォーク・グループで、国立一関工業高等専門学校の同級生であった、天野 滋(あまの・しげる)さん(故人 / 一関市出身)、中村貴之(なかむら・たかゆき)さん(宮古市出身)、平賀和人(ひらが・かずと)さん(花巻市出身)の三人が在学中の昭和47(1972)年にグループを結成した。 アマチュア時代には「ニュー・サディスティック・ピンク / New Sadistic Pink」として、当初はロックを中心に活動していたが、フォーク調の曲でデビューするのにこの名前が似合わないという理由で、頭文字だけ取り出したNSP(N.S.P )というアルファベット三文字のバンド名に変更された。高専在学中の昭和48(1973)年に『 第5回 ヤマハ・ポピュラーソング・コンテスト (ポプコン) 』に於いて楽曲『 あせ 』でニッポン放送賞を受賞し、同年06月『 さようなら 』でデビュー。翌・昭和49(1974)年、高専卒業を機に上京し、その年に『 夕暮れ時はさびしそう 』がオリコン11位の大ヒットに、同年のアルバム『 N.S.P. III ひとやすみ 』はオリコン4位のヒットを記録。その後も、昭和51(1976)年『 赤い糸の伝説 』がヒットし、叙情派フォークを代表するグループとなった。しかし昭和55(1980)年以降からは、各メンバーがそれぞれが作曲、プロデュースなどソロ活動が多くなり、昭和62(1987)年には、グループとしての活動を停止した。そんな状況の最中に、リーダーでもあり、今回の発車メロディー楽曲に採用され、作詞作曲を手掛けた天野 滋さんが、平成17(2005)年07月01日、病により享年52歳の若さで逝去してしまった。(ノ_-。) 今回、一ノ関駅・新幹線ホームへの発車メロディー導入の経緯となったのは、勝部 修(かつべ・おさむ)一関市長が東京出張で乗り換えのため、仙台駅で降りた際に発車メロディーの『 青葉城恋歌 』を聴き、「一関でも何かないだろうか」と考えたのがきっかけだと言う。その後市拠点駅推進協議会と共に昨秋から準備を進め、JR東日本側に要望実現を要請していた。曲は、市役所庁内全職員の意見などを踏まえて最終決定したと言う。勝部市長は談話の中で「舞台となったのが磐井川(いわいがわ)の堤防で、市に所縁が深い曲。原曲よりテンポアップするよう工夫し、良いメロディーが出来た」と好感触。曲全体のイメージが市内を流れる磐井川の堤防の風景を歌っている事から採用に至った。サビの部分を中心に約30秒にアレンジし、制作に於いてはボーカルとベースを担当する平賀和人さん自身も協力し、出来栄えに太鼓判を押したという。JR東日本・一ノ関駅の角谷公博(かどや・きみひろ)駅長は、JR各社ダイヤ改正後の03月20日から、新幹線ホーム発車メロディーの導入ついて「独自に一関高専出身のフォークグループ『 N.S.P.』のヒット曲『 夕暮れ時はさびしそう 』を流させて頂きます。岩手県内の新幹線の駅では初の取り組みとなりますが、岩手県南の玄関口、とりわけ栗駒山麓や世界遺産・奥州平泉、厳美渓、猊鼻渓等、観光資源が豊富で、同駅の観光出発の玄関口として、また一関のイメージアップや一関市民の皆様に地元への愛着を深めて貰う事を目指していきたい。特に旅行需要が多い50~60代にとっては非常に懐かしい曲で、今後も地域と一緒に盛り上げていきたい。」とこの様に抱負を語った。(^-^)/ また市拠点駅推進協議会長の佐藤晄僖(さとう・こうき)一関商工会議所会頭も「ベルよりも旅情を誘い、駅に良い思い出を残してくれるのではないか」とこの様に述べ期待感を寄せた。o(゜∇゜*o)(o*゜∇゜)o~♪ また今回、発車メロディーとして導入が決まった事で、制作に携わった平賀和人さんは「今回この企画が実現した事、本当に嬉しく思っていると共に、ビックリしています。市長、そして一関市民の皆さん、そしてJR東日本の皆さん、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。一関が育んでくれた『 N.S.P. 』、天野 滋君の代表曲でもある『 夕暮れ時はさびしそう 』は、正に一関の磐井川の河川敷堤防が詞のテーマになっている場所なので、天野君(故人)本人が一番喜んでいると思います。(゚ーÅ) 僕も出来れば一ノ関駅の新幹線のホームで、一度で良いから聞いてみたいと今本当に心から思っています。」とこの様に感謝の意を述べた。☆-( ^-゚)v 因みに東北新幹線発車のご当地ソング導入は、仙台駅の『 青葉城恋歌 』、郡山駅の『 キセキ 』、福島駅の『 栄冠は君に輝く 』、新青森駅の『 ねぶた囃子(ばやし) 』に続いて5駅目で、岩手県内では初めてのケースとなる。オリジナル曲が当時のアナログレコード(SP盤)としての発売されたのが、遡る事44年前の昭和49(1974)年07月10日。ラジオの深夜放送がブームの最中、当時の中高校生時代を『 N.S.P.』の歌で青春時代を過ごした、団塊世代や発車メロディー好きの鉄道ファンとっては、またとない朗報である事には間違いない。(*゜▽゜ノノ゛☆ 44年前当時、SP盤として発売され長い歳月を経て、起算して16,325日目(44年8ヶ月11日)。JR各社ダイヤ改正(03/16 実施)後の今般03月20日。一ノ関駅上り始発列車(※…午前06時48分発)から発車メロディーとしてお披露目され、全国へ一関を広くアピールする事となる。('-^*)/ ※…最下段に詳細を掲載。

世界女子テニス・大坂なおみ選手、アジア初の世界ランキング1位へ !! ヘ(゚∀゚*)ノ

昨年09月08日、米国ニューヨークのビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニスセンターで、行われた、全米オープンテニス女子シングルス。そして今年01月26日、豪州メルボルンで行われた全豪オープンをそれぞれ制覇した、大坂なおみ選手(日清食品)が、WTA(Women's Tennis Association / 女子テニス協会)01月28日付けで発表された世界ランキングでアジア勢、男女を通じて初の世界ランク1位の座に成った事を発表した。1年間の成績をコンピューターで換算する現行制度が昭和50(1975)年に始まった女子では、通算26人目の1位。因みにこれまでのアジア勢の過去最高は、女子で四大大会で2勝の李娜(中国)が、平成26(2014)年02月にマークした2位だった。大坂選手は、平成23(2011)年10月にデビューしてからまだ間もない、翌年・平成24(2012)年時点でのランクは1,016位。そこから7年の歳月を経て一気に世界ランク1位の座に辿り着いた事になる。日本テニス協会に因ると、シングルスの世界ランクで日本勢の過去最高は、昭和08(1933)年に男子の佐藤次郎が記録した3位で、当時は識者が順位を付ける方式だった。ダブルスでは現行制度の平成12(2000)年に女子の杉山 愛が1位となっている。昨年09月09日、日本テニス界の歴史は大きく歴史を塗り替える日となった。米国・ニューヨークで行われた全米オープンで、大坂なおみ選手は日本勢として初めて四大大会シングルス優勝の栄冠に輝いた。これまでの四大大会シングルスでの日本勢の最高戦績は、錦織 圭選手の平成26(2014)年の全米オープン男子シングルスでの準優勝。女子シングルスでは沢松 和子さんの昭和48(1973)年全豪オープン、伊達 公子さんの平成06(1994)年の全豪オープン、翌年・平成07(1995年)の全仏オープン、翌々年・平成08(1996)年のウィンブルドンのベスト4進出が最高で、何れも日本選手での優勝は成らなかった。全米オープン決勝当日「尊敬する選手はセリーナ・ウィリアムズ選手(アメリカ)。もっと強くなりたい。目標はトップ10プレーヤー」と話していた大坂選手。その大坂選手が、全米オープンの女子シングルス決勝でセリーナ・ウィリアムズ選手を下して優勝。試合翌日の09月10日の世界ランキングで、自己最高の世界7位をマークと躍進した。平成13(2001)年に家族で米国に移り、テニスを始めたのは3歳の時。米国人の父親がコーチ役となって、同じくテニスプレーヤーの1歳上の姉、大坂まり選手と共に、地元の公営コート等で練習をしていた大坂選手。「強くなるには上のレベルで戦わないといけない。厳しい環境でプレーさせたい」という両親の意向で、プロ大会への出場が可能になる14歳からITFサーキット(ツアー下部大会)への挑戦を始めた。平成25(2013)年04月のITFサーキットで、この年の全仏ジュニアとウィンブルドン・ジュニアを制したスイス期待の新鋭、同じ平成09(1997)年生まれのベリンダ・ベンチッチ選手を下した事で、10代プレーヤーの中で一目置かれる存在になった。翌年・平成26(2014)年、16歳で米国・スタンフォードで行われたツアー大会で予選を突破。本戦1回戦で元世界4位、平成23(2011)年に全米覇者のサマンサ・ストーサー(オーストラリア)から白星を挙げ、大器の片鱗を覗かせた。大坂選手が四大大会の予選に初めて出場したのは、平成17(2015)年のウィンブルドン。翌年・平成18(2016)年の全豪では予選を突破し3回戦へ。全仏では四大大会初の本戦ストレートインを果たし3回戦、全米でも3回戦に進出した。四大大会予選に初挑戦してから約半年で本戦に出場し、コンスタントに結果を出し続けていた事も、今の大坂選手の活躍を予感させる記録のひとつとなった。同年(2016)09月の東レPPOテニスでは、ワイルドカード(主催者推薦)での出場ながら、日本勢として21年ぶりに決勝まで進出し準優勝を果たした。翌年・平成19(2017)年の四大大会は全豪2回戦、全仏1回戦、ウィンブルドン3回戦、全米3回戦という結果に終わったが、初出場となったウィンブルドンの3回戦では元女王のビーナス・ウィリアムズ選手(米国をあと一歩まで追い詰め、会場のテニスファンを沸せた。また、女子国別対抗戦のフェドカップでは、初めて日本代表に選出され、デビュー戦となった同年02月のカザフスタンで行われたアジア / オセアニア・ゾーン1部の対戦でシングルスに出場し、4戦全勝の記録を残した。そして昨シーズン、その才能が一気に開花した。昨年03月、大坂選手は米国・インディアンウェルズのBNPパリバ・オープンでツアー初優勝。これは四大大会に次ぐ格付けの大会(WTAプレミア・マンダトリー)での快挙だった。そのニュースが記憶に新しいうちに、大坂選手は昨年全米オープンで快進撃を続け、さらなる「快挙」となる四大大会のタイトルを…。そして今年01月に行なわれた全豪オープンをそれぞれ手にし、世界ランク1位の座を射止める事になった。全米・全豪優勝後、日本だけでなく、米国、そして今や世界中から注目されるトップアスリートのひとりとなった。持ち味のパワフルでダイナミックなテニスに、自身が「patience(ペイシャンス、我慢、忍耐)」と話す、ゲーム中に攻め急がず、チャンスを待ってきっちりと決めに行くと云うスタイルが加わり、プレースタイルにより深みが増した大坂なおみ選手。17歳の時、インタビューで目標を聞かれ、シャイな笑顔での返答は「来年はトップ100、5年先の目標ならウィンブルドンで活躍する事」。それから3年の年月。瞬く間に自らが設定したゴールを駆け抜け、四大大会チャンピオンの座に辿り着いた。「自分のプレーに合っている」という芝のウィンブルドンで、大坂選手が優勝プレートを掲げる日も、間もなく実現する日がきっと来る事だろう。ヘ(゚∀゚*)ノ

『キログラム(kg)』の定義、約130年ぶりに変わる事に !! \(゜□゜)/

今回は少々お堅いお話し。物理的定義の変更に関する話題である。f^_^; 物理と言うと読者の皆さんにとっても特定的分野の方々にしか使われないもので、一般にとっては無縁の様にも感じるが、意外と我々一般社会生活の中に於いては、かなり重宝されている。例えば重量関係で言えば『グラム(g)』『キログラム(kg)』『トン(t)』等、電気関係で言えば『アンペア(A)』と言った様に、知らぬ間に日常生活に於いては、いつの間にか使われている言葉であり、日常生活に於いても欠く事が出来ない単位表記である。(^-^)/ そういった中で、我々が普段良く使う物理的定義と言えば、重さ=重量に当る『kg』が代表格になるが、先般11月16日にフランス・ベルサイユで行われた国際度量衡総会で新たな定義に移行する案がこの程、採択された。新しく採択された案件の内容は、フランス国内にある『円柱状の分銅を国際的な基準としている質量の単位『kg』の定義を約130年ぶりに改訂見直しをし、基礎物理定数を使った新たな定義に移行する』というものだと言う。1kgの現在の定義は1889年以降、フランス・パリ郊外の国際度量衡局にある、白金イリジウム合金製の分銅『国際キログラム原器』の質量が基準とされ、日本など『メートル条約』の加盟国には、それぞれ複製が配られていた。しかし分銅は、表面の汚れや傷で重さが僅かに変わる等誤差が避けられず、誤差のない基準の策定が進められてきた。そういった中で今回は、光が持つエネルギーの最小単位で、電子や原子の質量計算に使える物理定数『プランク定数』を新たな基準にする事になった。『プランク定数』は電子の質量等に密接に関係し、正確な値が解れば計算で1㎏を割り出せる事が出来るとの事である。この測定には日本の産業技術総合研究所(茨城県つくば市)や、ドイツ、米国等の研究機関が関わった。日本の産業技術総合研究所は、高純度のシリコン結晶の密度を精密に測定し、正確な『プランク定数』を求める事に成功する等、新たな定義づくりの参画策定に大きく貢献した。今回の国際度量衡総会では、絶対温度の単位『ケルビン』や電流の『アンペア』、物質の量を示す『モル』も定義が変ると言う。光が持つエネルギーの最小単位で、電子や原子の質量計算に使える物理定数『プランク定数』を新たな基準にする事になった。茨城県つくば市の産総研の本部では、20人の研究者がネット中継で総会の推移を見守り、変更が決まると大きな拍手が起こった。産総研の首席研究員は「キログラムの定義を変えるのは夢で、現役の間は無理だと思っていた。30年来の成果が実った」と感慨深げに語った。移行は来年05月20日から実施され、我々一般への影響だが、1kgの質量そのものは変わらず、社会生活に影響はないが、逆に誤差が生じにくくなるため、新薬開発などに必要な微細な質量の計測がより正確に出来るようになると言う。云わば、製薬部門に携わる関係各位にとっては朗報となる。今から130年近く前の19世紀末、当時の最先端の冶金工学などが導入されて製作された白金イリジウムの金属塊は腐食せず、また摩耗にも強く慎重に扱えば10万年は質量の基準として機能するだろうと期待され、家庭にある体重計から、スーパーや小売店で肉や魚を計量する量り、薬剤師が薬を調合する精密量り、鉄鉱石や原油等の輸出入に関わる大型の量りに至るまで、世界中の質量に纏わる計測の基準は、これまでは全てこの『国際キログラム原器』が基準になって来た。しかしその後の計測技術の発展から、当時は予期しなかった変化がここ数年前から見え始めてきた。どんなに慎重に扱っていても、その基準が僅かに変動している事が最初から分かってはいても、日常生活には影響しない程のごく僅かな変化でも、今日のハイテク社会にとっては無視できない変動で、しかも高度な科学技術の更なる発展により、これまで無視出来ていた計測上の微小なずれが見つかり、今後の科学の発展を阻害する恐れが出てきたからである。(・_・;) 当然基準がずれてしまえば基準としての役目を果たす事は出来ず、科学技術の進歩に対して基準が基準としての役割をも果たせなくなってきた事による、今回の決定。今後は従来の分銅など特定の物体に因らなくなり、手間の掛かる管理や誤差の心配もなくなる。これまで絶対的な基準と云われてきた、分銅によって計測されて来た計測基準。来年の05月20日以降からは、約130年ぶりに主役交代、いわば科学技術分野に於ける「大政奉還」と云った処だろうか…。その日を迎える事になりそうである。(^-^)/

若い女性世代を中心に人気復権の『固形石鹸』 !! (=◇=;)

読者の皆さんも一日一回以上必ず利用しているものとなれば、『ソープ=石鹸』と言う事になるだろう。洗顔、入浴、外出先から帰宅した際や、食事前やトイレ使用後の手洗い等によく利用されている。(^-^)/ 石鹸もここ最近は、固形から液体式が主流になり、所謂ポンプ式タイプを筆頭に更には詰め替え出来るものも発売されている。洗顔と言えば「洗顔フォーム」、石鹸と言えば「泡石鹸」が固定概念常識と成りつつある世の中で、中高年世代にとっては固形石鹸を使う事は当たり前の時代であったが、若年層にとっては液体式を利用している事が当たり前となり、若年層世代にとっては、固形石鹸に対して何かとピンと来ない感じがこれまではあった。(^-^)/ しかしここ最近は少し様子が変わって来ている様である。20代や30代の女性を中心に、固形石鹸ブームが密かに起きていると言うのだ。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ 固形石鹸は、平成03(1991)年をピークに6割減と大幅に市場が縮小していたが、ここ最近では業績回復傾向が明確になっている。Σ(~∀~||;) それは固形石鹸市場を二分し、老舗格である牛乳石鹸の業績が5期連続増収増益となっているからである。固形石鹸市場で牛乳石鹸は、同じライバルである花王を抜いて日本一になっているからだ。 これまでの固形石鹸の市場縮小の背景要因としては、液体形状等の新しいカテゴリーに置き換わっていった事が最大の要因だが、ここに来てパッケージから『赤箱女子』と呼ばれるファンが登場している。小さなカテゴリーと言えども、なぜか固形石鹸人気が復活しているのである。牛乳石鹸のホームページ内にある『赤箱女子』のサイトに因ると、「しっかり洗えるんだけど“さっぱり”する。ベタベタしないけれど“しっかり落ちる感”があって大好きです」と言ったコメントが寄せられている。ポイントの1つ目は【洗い心地】が優れて、泡の粒が細かくクリーミーな部分が高い評価を得ているようだ。そして2つ目のポイントが【お手頃価格】が評価されている様である。牛乳石鹸『赤箱』は1個100円程度であり、液体石鹸では詰め替え用でも300円程度が相場だと言う。また牛乳石鹸は無くならない感覚があり、お得感がありそれがどうも固形石鹸人気復権の鍵を握っている様である。更にもうひとつ固形石鹸ブームを押し上げている背景のひとつには???若い女性の間で安い金額でたくさん使える化粧品「プチプラコスメ」のブームの影響が背景にある様だと専門家はこう分析している。更には、最近起こっているアトピー性の皮膚炎やトラブルに対してだけでなく、幼児やお年寄りに至るまで老若男女問わずに使えるメリットがあり、お肌に優しい事から、皮膚科の医師らも強く奨めていると言うのだ。牛乳石鹸共進社の担当者の話によると「ここ5年程で毎年10%ぐらい、売り上げを伸ばして来ています」とこの様に話す。また実際に固形石鹸を使用してみてその効能をツィッターサイトに紹介している一例もある。「筆者は何度か途中で浮気心が芽生えて、違う洗顔料などに手を出したものの、そのたびに頬に吹き出物や斑な赤みが出てきてしまい、結局赤箱に戻って肌が落ち着く、の繰り返し。また、夫は敏感肌(軽いアトピー体質)なのですが、赤箱で体を洗うと非常に調子が良いとの事。洗い過ぎによる乾燥を心配して、何度か敢えて使わない日を設けた事もあるものの、 逆に肌に痒みが出てしまい、毎日洗った方がトラブルがないそうです。」と30代の女性は、使用した後の感想をこの様に語った。またもうひとりのツィッターサイトへ投稿した20代の女性は「洗い流す時の滑りがなく泡切れも、 洗い上がりのツッパリ感もなく、余程の秋冬の乾燥が激しい季節出ない限りは顔も身体も「急いで保湿しなくては!!!!」と焦らなくても気にならない程の使用感、と言うのが個人的な感想です。」と使用後の実感をこう語っている。余談であるが、この牛乳石鹸の『赤箱』タイプは、しっとりタイプで関西圏が主流。『青箱』タイプはさっぱりタイプで、こちらは1個85円で販売され主に関西圏以外が主流だと言う。(=◇=;) ここ最近、液体式ソープに押し切られ気味で、 ピーク時の約6割減と、固形石鹸市場が消滅するのではないかという悲観論までもが蔓延し、しかも液体式ソープ市場の売り上げトップとの差を逆転するには、50%も伸ばさなければならない厳しい状況にあった、固形石鹸市場。(°д°;) しかしここに来て液体式ソープの便利さの裏に潜む死角による、皮膚へのアトピー性皮膚炎や赤み炎症といった皮膚系のトラブルも目に見えない処で起こる様になった。「ソープ=石鹸」自体を作るまでの課程に於ける、品質工程による影響も背景にはあるのだろうか。その反動からなのか、ここに来て各地域で古くから使われていた、地元ゆかりの・石鹸ブランドも含め、昔ながらの釜焚き製法による、固形石鹸が若年層世代を中心に徐々に見直され始めて来た。その結果お肌のトラブルも改善しつつあると言う報告事例が目立って増えて来ているのも、固形石鹸ブームを押し上げるひとつの要因なっている様である。(=◇=;)  お肌とお財布、それぞれへの優しさへの思い遣り…。それはやはり世代を超えて次の世代へ引き継がれて繰り返すという事に他ならない様である。(・∀・)

宮城の新ブランド米『だて正夢』いよいよ今年10月24日から、本格市場参入へ !! (σ*^―^*)ゝ*

季節も神無月・10月。所謂、中秋の季節真っ只中である。街中のスーパーや小売店、デパ地下の食品コーナーに行くと、全国各地からの秋の恵みが所狭しとコーナーに並べられている。秋の味覚はたまた『みのりの宴(うたげ)』の代表となれば、日本人の主食であるお米と言う事に辿り着くであろう。そして本県・コメ処宮城からは、昨年お披露目をした新ブランド米である『だて正夢』がいよいよ今年から本格的に市場に登場する事になる。(^-^)/ 昨年11月06日に宮城県庁で初めてのお披露目会。そして同年11月07日に県内で一般向け先行販売が開始され、百貨店や量販店、米殻店など約200店舗で販売。品切れが相次ぎ、約10日間で全農(JA)宮城県本部が予定していた予定数の出荷が完了した。首都圏では昨年11月29日から販売を開始し、東京銀座・松屋では、本県出身のお笑い芸人「サンドウィッチマン」の二人がプレデビュー発表会に登場するなど、新ブランド米のPRにも力を注いで来た。そしていよいよ、新ブランド米『だて正夢』の市場本格参入元年となった今年。高価格帯の銘柄米として今秋に本格デビューする県産米の新品種『だて正夢』の作付けが今年05月16日、仙台市若林区の水田で行われた、当日は村井嘉浩宮城県知事も同席し、知事自ら田植えを体験した。地元若手農家(37)に、作業の手順などを教わった村井知事は、50アールの水田に入って田植え機を操縦し、苗を植えて行った。地元若手農家が所有する水田16.5 ヘクタールのうち、1ヘクタールで初めて『だて正夢』を栽培した。水田は東日本大震災の津波で浸水し、瓦礫撤去や圃場整備を経て、平成28(2016)年に作付けを再開した。田植え作業が終わった後、村井知事は「他産地との差別化を図り、県産米全体を引っ張っていけるコメに育ってほしい」と期待を寄せた。水田所有地元若手農家は「震災から7年が経ち、新品種を作付け出来る喜びを感じる。宮城米の消費拡大に貢献したい」と話し、刈取りの日となるこの日を待ち侘びていた。(^-^)/ そして先般09月20日、村井知事は再び、仙台市若林区で05月に植えた『だて正夢』の稲刈りを体験した。知事は、5月中旬に田植えをした地元若手農家の田んぼに入り、コンバインに乗り込んで実りを確かめながら期待の新米を刈り取った。水田所有者、曰く「今年初めて1ヘクタールで『だて正夢』を栽培した。ひとめぼれの栽培方法と違う点もあり難しかったが、天候に恵まれよい実りになった。県産米の消費拡大とブランド確立に向けた起爆剤になって欲しい」と大きな期待を寄せた。現場に立ち会った村井知事は「18年産(だて正夢)は食べたいと望む、全ての人に行き届くと思う。県内は勿論、首都圏を中心に売り込みたい」と意気込みを語り、2018年産の販売開始日を10月24日にすると発表した。またこれに先立ち、先般09月20日には、地方活性化や観光振興をテーマに全国の自治体や企業が参加する商談会『2018 “よい仕事おこし” フェア』が、東京・有楽町の東京国際フォーラムであり、本県在住・歌手のさとう宗幸さんらが、宮城県産米の新品種『だて正夢』をPRした。宗さんは、歌手の庄子真理子さんと共に特設ステージで「青葉城恋唄」、「花は咲く」などを披露。宗さん曰く「東日本大震災からの復興に、全国から多くの支援を頂いた。m(_ _)m 被災地の状況も大分変わり、子供達も落ち着きを取り戻しつつある」とこう話した。10月24日に本格デビューする『だて正夢』のおにぎりを味わい「冷めても十分に美味しさが伝わってくる。宮城は海も山も食材の宝庫。是非、宮城の食を楽しんで欲しい」と呼び掛けた。(*^▽^*)ノ* 宮城県によると、2018年産『だて正夢』の作付面積は301ヘクタールで、約1,500トンの出荷を見込んでいると言う。最近のコメ市場を拝見すると10年程前は、特Aを獲れるお米は、各県とも新潟県産を受け継ぐ「コシヒカリ」の独断場で、正に金城湯池の状況だった。しかし、ここ最近の傾向として、各地の農業試験場や農家の方の努力で、地域色溢れる「ブランド米」が多くラインナップされるようになって来た。このため昨年は、毎年特Aの常連と言われていた『新潟魚沼産 コシヒカリ』が最高評価から陥落する等、異変も目立ち始めて来ている。\(゜□゜)/  コメ市場も減反政策の廃止に伴い、最近は各地で休耕田状態となった、圃場の整備が目立ち始めてきた。新規で参入する法人やこれまで農業分野とは懸け離れた企業関係の参入も見受けられる。農業自体を新しいビジネスモデルとして大区画圃場として整備しようとしているのが目立っている。日本の穀倉地帯と言われてきた宮城県もここの処、消費者の食の多様化やコメ離れに押され気味で、コメの消費も含めブランド米としての看板もやや落ち込み気味だった。食の好みと言うのも当然、算定基準にも入る。コメ市場戦国時代を言われる最中、いよいよ10月24日から全国向けの市場に出荷される『だて正夢』。果たして戦国の武将・伊達政宗公が果たし得なかった天下盗りの野望をコメ市場に於いて、そのネーミングで持って天下を盗る事が出来るのか、間もなく市場参入の火蓋が切って落とされ様としている。(`・ω・´)ゞ

JR駅構内のキオスク(KIOSK)から、新聞雑誌関連将来は撤退か…。 !! ( ̄□ ̄;)

通勤通学やショッピング等で、電車を利用される方も多い方なら、必ず利用するとなれば駅売店にあるキオスク(KIOSK)である。(^-^)/ ちょっとした飲食物を始めとして、ネクタイや文庫本、手土産品までを狭いスペースを揃えて販売している駅の売店の事を指している。出掛ける途中で忘れ物に気付いた時でも、電車を待つほんの短い時間に買い物が出来るのが利点である。o(^▽^)o 旧国鉄(日本国有鉄道)時代から続くこの売店の名称がこの名前に取って替わったのは、昭和48(1973)年。前年の昭和47(1972)年に「鉄道弘済会」が設立40周年を迎えたのに伴って、駅売店のイメージアップを図る目的で、職員及び関係者から愛称を募集したのが始まりである。応募の結果、トルコ語であずまやを意味する「KIOSK」に名称が取って替わった。(=◇=;) 国内では駅売店のイメージが強いが海外では駅前や街角、公共の広場にある売店等は「KIOSK」と呼ばれていて「小さな売店」の事を指している。(=◇=;) 「KIOSK」の読み方も当初は「キオスク」だった。しかし「キヨスク」に読み方が替わったのは、「気安い」「清い」にも通じると云う、冗談な様な理由で呼ばれる様になったというウソだと思える様な事実が存在している(平成19(2007)年07月01日より、呼び方は国際的読み方に従い「キオスク」に変更統一)。(=◇=;) 昭和62(1987)年に旧国鉄がJRに分割民営化されたのを契機に、従来のキオスクスタイルに囚われない新しい形のコンビニ「NEWDAYS」にスタイルを替えたり、新しい商品開発をする等して、既存のキオスクと同様に共存共栄した形で今日に至ってきた。(=◇=;) しかしここに来て、キオスク自体にもちょっとした異変が起きている様である。JR駅構内の店舗「キオスク」等への雑誌の卸売りを一手に担ってきた、公益財団法人「鉄道弘済会」が今年10月にもその雑誌関連の取次ぎ事業から撤退するというのだ。( ̄□ ̄;) この事実は、今年08月30日付けの日本経済新聞(日経)が「駅ナカ 雑誌消滅の瀬戸際」等と報じている。記事によると、雑誌販売がピーク時の10分の1となり採算が悪化したのが主因との事だ。但し今回の件、鉄道弘済会の取次業務撤退の後は、出版取次大手の「トーハン」が業務を引き継ぐ事が決まり、東北から東海地方に掛けての約1,000店舗から雑誌が消える事態は一先ず回避されたと云う。A=´、`=)ゞ しかし予断は許されない様で、今後も新聞雑誌関連の販売低迷が続くとなれば、最悪全ての「キオスク」から雑誌が消える可能性も十分にあり、そうなれば「将来、出版業界への更なる打撃となりかねない」(日経)と警鐘を鳴らしている。Σ(゚д゚;) 1989年01月07日の昭和天皇の崩御に伴い、翌日01月08日に今上天皇の即位に伴って『昭和』から改元された『平成』。その平成も、来年の04月30日に今上天皇の生前退位を以って、11,070(30年3ヶ月23日)日の歴史に幕を降ろす事になるが、この間に、雑誌や新聞に限らずインターネットの普及で若者を中心に『ペーパーレス』が深く浸透した時代でもあった。嘗ては通勤電車内で、紙媒体の新聞や雑誌を広げて読む人が多く目立った、そんな当たり前だった時代。それが今やスマートフォンの普及や電子書籍等に次々と主役の座を奪われ、もはや紙媒体による情報提供は、正しく土俵際までに追い詰められた感がある。∑(゚Д゚) 嘗て街中に小さな書籍店は勿論、大型商業施設に必ず入っていた書籍店も、ここ最近のペーパーレス化の影響で、書籍の売り上げは大幅に落ち込み、書店自体の閉鎖や倒産破産が相次ぐ様になり、紙媒体での入手が益々困難になって来た事は否めない。(・・;) 働き盛りのサラリーマンが中心だった男性週刊誌等の愛読者も、今では電車にも殆ど乗らない定年退職者が主流では、キオスクの雑誌が売れ残るのは無理もない事なのだろうか…。(・_・;) この事も全国各地で相次いでいる「キオスク」の閉店に、追い打ちを掛けている要因にも繋がっている様である。(-"-;A

平成最後の夏を襲った『西日本豪雨』!! ((゜д゜;)))

平成の元号が最後となる今年の夏、最悪とも言える自然災害が西日本を中心に起きてしまった。(((゜д゜;))) 06月29日に発生した台風7号が太平洋高気圧の外側を回り込む様に07月04日に掛けて東シナ海を北上し、対馬海峡付近で進路を北東に変えて日本海上に抜けたが、太平洋高気圧の影響で梅雨前線が07月02日から05日頃に北海道に停滞し、広範囲で雨量が07月の月降水量の平年値を超える等し、北海道では堤防の決壊や内水氾濫に伴う床上・床下浸水、崖崩れ等の被害が出た。その後、太平洋高気圧が南東に移動した事で、北海道付近にあった梅雨前線が南下。九州地方では台風の影響による雨が07月03日頃から降り続いていたが、特に07月05日から、九州から中部地方に掛けて停滞した梅雨前線に向かって、台風7号がもたらした暖かく湿った空気が流れ込む事で、梅雨前線が活発化し、東シナ海からの湿った南東風と、太平洋高気圧の縁を回る湿った南風が西日本付近で合流し、極めて大量の水蒸気がもたらされた格好となり、梅雨前線は09日に北上して活動を弱めるまで日本上空に停滞し続け、西日本から東日本に掛けて広い範囲で記録的な大雨となった。 07月06日17時10分には、長崎、福岡、佐賀の3県に大雨特別警報が発表され、更に19時40分には、広島、岡山、鳥取。続いて22時50分には、京都、兵庫と、1日だけで8府県に大雨特別警報が発表された。翌07日12時50分には岐阜県。翌8日には05時50分には高知、愛媛の2県にも大雨特別警報が発表され、最終的には運用を開始して以来、最多となる計11府県で大雨特別警報が発表された。この豪雨により、西日本を中心に多くの地域で河川の氾濫や浸水害、土砂災害が発生し、死者数は200人を超える甚大な災害となってしまった。この影響で、全国の上水道や通信といったライフライン関係に被害が及んだ他、交通障害が広域的に発生してしまった。(((゜д゜;))) 平成に入ってからの豪雨災害としては初めて死者数が100人を超え、また昭和に遡っても昭和57(1982)年に300人近い死者・行方不明者を出した長崎大水害(昭和57年7月豪雨)以降、最悪の被害となってしまった。 特に最大の被害を被ったのは、広島県である。特に広島市を中心に、呉市や近隣の安芸郡坂町を始め、瀬戸内海側に面した地域で、住宅浸水、河川の氾濫、土砂崩れ等により、多くの住民が亡くなったり罹災したりした。同じ状況は近県各地にも及んだ。岡山県では、倉敷市を中心に渡って被害が渡り、笠岡市では自動車部品会社の工場の裏山が崩れて土砂が流れ込み6人が巻き込まれうち2人が亡くなった他、総社市では冠水した道路で流されるなどして4人が亡くなると言った傷ましい事態となってしまった。 (_ _。) この他被害は山陰地方や四国、九州北部、近畿地方の一部、東海・岐阜、更には北海道にも及んだ。当然の事ながらこの災害の影響で被害を受けたのがライフライン関係である。高速道路、鉄道と言った輸送機能は一時マヒ状態となり、また携帯電話の大手3社(NTT docomo、au by KDDI、Softbank)等は、被災地の一部で携帯電話が利用出来ない状況が続いた。 当然の事ながら、農業、商業、製造業を含めた産業関係を始め、道路、鉄道、物流と言ったライフライン関連に直結する産業にも大きな打撃を与えた。また予定していた各イベント関連の興業関連イベントも諸般事情を考慮して、中止や規模縮小等、影響は計り知れない。(-"-;A これから被災地では復旧復興に向けた再興に取り組まなければならない大きな試練に立ち向かう事になる。来年04月30日で平成の時代は終わりになるが、それを見越したかの様な今回の未曽有の雨による甚大な被害。東日本大震災を始めとして、平成の時代は災害の試練との闘いの時代である事を、天から命じられたかの様な時代なのだろうか? (-"-;A

消えつつある、フィルムカメラ !! (´_`。)

読者皆さんも必ず1台は持っているとされるのが、カメラである。(^-^)/ カメラもここ最近は、デジタル式が殆ど主流になっている他、従来のガラケーから現在のスマートフォンに至るまで、簡単に写真が撮れる時代になった。o(^-^)o 真のカメラマニアやプロの写真家となれば、昔ながらのフィルム式のカメラに拘っていて、馴染みのある方が多い。(*´σー`) しかしここに来て、フィルムカメラも大きな曲がり角を迎えつつある様である。(  ゚ ▽ ゚ ;) フィルムカメラの老舗と言われてきたキヤノンが、先月05月30日。フィルムカメラで唯一の現行機種であるフィルム一眼レフ『EOS-1v』の販売を終了した事を明らかにした。( ̄□ ̄;) この製品、平成22(2010)年には既に生産を終了していたが、このほど在庫分もゼロとなったためキヤノンのホームページ上で販売終了が告知され、創業から80年を超えるフィルムカメラの歴史に静かに幕を下ろした。Σ(・ω・;||| 同社は、前身である精機光学研究所が、昭和11(1936)年に35ミリフィルムカメラ『ハンザキヤノン』を発売して以来、フィルムカメラを生産してきた。『EOS-1v』は、平成12(2000)年に発売した最上級モデルで、カメラ愛好家から評価されたが、デジタルカメラの波に呑まれてしまった。∑ヾ( ̄0 ̄;ノ 新元号07(2025)年10月31日までは修理対応を行うものの、新元号02(2020)年10月31日以降は、部品の在庫状況に応じた対応になるというのだ。販売終了の理由について同社では「デジタルカメラの普及に伴って、フィルムカメラは需要が縮小し、販売の継続が難しくなったため」と説明している。。(´д`lll) キヤノンは、会社が設立された昭和12(1937)年からフィルムカメラを販売してきたが、その80年を超える歴史に幕を降ろす事になった。フィルムと言えばその老舗となるのが富士フィルム。しかしその富士フィルムも今年04月06日に、写真用の白黒フィルムと白黒印画紙の販売を終了を既に発表し製造は終了した。同社は昭和09(1934)年01月に設立。同年02月から白黒用の印画紙など写真感光材料の製造・販売を開始し、カラー写真が普及する昭和45~55(1970)年代まで主力商品として同社を支えてきた。しかしカラー写真の普及やデジタル化に伴い、最盛期だった昭和40(1965)年頃の1%程度まで出荷量が減っていた。(°д°;) 同社では、コスト削減などを進めたものの、結局は採算が採れず安定的な供給が困難となった事から、製造・販売を終える事にしたと言う。白黒フィルムは今年10月から新元号02(2020)年03月までの間に、順次出荷を終える見通しとの事だ。富士フィルム自体も昭和11(1936)年から続いてきた、82年に渡る白黒フィルム製造及び販売の歴史に、在庫分ゼロと共に幕を下ろす事になる。但しカラーフィルムの製造・販売は今後も継続するとの事だ。フィルムカメラを巡っては、国内大手メーカー・ニコンが『F6』『FM10』の販売を続けているが、そのニコン自体も昨今のフィルムカメラを取り巻く環境は日を追って一層厳しく、一部オプションパーツの製造販売も終了している事もあり、事業を縮小する動きが続いていて、予断を許さない状況が続いている。(・_・;) カメラメーカーで作る『カメラ映像機器工業会』に因ると、フィルムカメラの出荷のピークは、平成02(1990)年の538万台余りだったが、その後のデジタルカメラの普及に伴ってフィルムカメラの出荷台数は年々減少傾向を辿り、平成19(2007)年には5万4千台と凡そ100分の1にまで縮小してしまった。ヽ(;´Д`)ノ ある写真家の一人は白黒フィルムが無くなる事について「何時か、この日が来ると思っていた。白黒フィルムは、富士フィルムの創業事業であり、たくさんの人に愛されてきた、ひとつの写真文化が経済論理で消える。デジタルで疑似表現は出来るが、今の写真文化を培ってきた本物には、もう戻れない。」と、写真が道具を使う文化ゆえに訪れる時代の変化と、白黒フィルム等の製造・販売の終了を惜しむコメントをこの様に語った。(´□`。) アナログからデジタルへの移行に伴い、これまで長い事親しまれてきたフィルムカメラであるが、急激な技術革新とフィルムに使われている現像薬液と言った、環境負荷への影響も少なからずあった事は否めない。何れはマーケット市場から完全にフィルムカメラがそう遠くない時期に消えゆくのみになるのか…。写真愛好家達にとっては気懸りな事である事は否めない様である。(*´Д`)=з

『羽生結弦選手2連覇おめでとうパレード』、ファンの行動も金メダル級 !! ヘ(゚∀゚*)ノ

今年02月17日、韓国で行われたピョンチャン(平昌)オリンピック。フィギュアスケート男子で66年ぶりの2連覇を果たし、世界中に感動の与えた、本県出身の羽生結弦選手。(^-^)/ その感動の2連覇を果たした日から起算して『65』日目に当る、先般04月22日に仙台市内で『羽生結弦選手 2連覇おめでとうパレード』が、盛大に挙行された。4年前のソチ五輪でアジア勢男子で初めて金メダルを獲得した際、その直後に仙台市内で行われたパレードでは、凡そ9万2千人のファンが沿道へ駆け付けたと言う。しかし今回は男子フィギュアスケートで、66年ぶりの2連覇と言う快挙にパレードの距離も、前回より220m長い約1.1kmのパレードになった。当日沿道には、凡そ10万8千人のファンが沿道を埋め尽くし、羽生選手の快挙を挙って祝った。ヾ(@^▽^@)ノ 当然の事ながら、この人出で必ず予想されるのは、所謂ゴミの問題である。全国各地域で行われるイベントとなると、食べ物関係の生ゴミを始めチラシ類等の紙類、容器類等のプラスティック系のゴミが大量に発生し、またゴミの分別もしなくてはならない。(*´Д`)=з イベントや祭典をやるにあたって必ず出て来るのは、否応なしでこの問題にぶち当たるからだ。!(´Д`;) 今回の羽生選手の2連覇パレードも4年前のソチ五輪で金メダル獲得した以上に、人出が予想され関係者は大量にゴミが出る事を事前に想定してこの日に臨んだ。(`・ω・´)ゞ パレードのスタートから約10分後に、出発地点になった東二番丁通り周辺の道路で、水色のジャンパーを着たボランティアの大学生ら約20人がゴミ拾いを開始した。所が、大通りを100m以上歩いて集まったゴミは、家庭用ゴミ袋1枚に纏めても十分余裕がある程度。各自3枚ずつビニール袋を用意してきたのだが「拾うゴミがない」と、想定外のゴミの少なさに驚きの声が漏れた。( ̄□ ̄;) しかも10万人超が詰め掛けただけに大量のゴミが散乱する事も想定されたが、終わってみればボランティアも「拾うゴミがない」と驚く程だったと言う。Σ(・ω・;||| 実は貢献したのは羽生選手のファンだった。今回のパレード開始前から事前にファン同士が「終了後にゴミを1つ拾って欲しい」「ゴミ拾いして帰る」とツイッター等を通じて呼び掛けていたと言うのだ。Σ(=°ω°=;ノ)ノ この日ブライアン・オーサー・コーチのお面を被ってパレード中の羽生選手に「オーサー!」と指を指されたという仙台市内在住の30代の女性は、家庭用ゴミ袋を持参。「羽生くんも地元にゴミが散らばる事を望んでいないと思うので、しっかり準備してきた。」とニッコリ。(‐^▽^‐)仙台市内の大学に通う女子学生(19)は「ゆづくんがあれだけ真摯(しんし)な姿を見せているんだから、困らせちゃいけない」と語った。(^-^)/ 仙台市スポーツ振興課によると、「4年前のパレードでもファンのマナーの良さからゴミは想定より少なかった。」と語り、今回は前回を上回る人出が見込まれていたため、今回は1,000人規模でパレードするルートのゴミ拾いに備えていたのだが、結果は杞憂(きゆう)に終わった様だ。(-。-;) ボランティアの一人、東北工業大学2年生の女子学生(19)は、拾うゴミが殆ど無かった事について「一人一人の思いが繋がった結果ですね」と嬉しそう。('-^*)/ パレード実行委員会の最高責任者は「ゴミが散乱していたという報告はなく、沿道の方々にマナーを良くして頂いた」と金メダル級の評価で感謝を述べていた。(o^-')b 羽生選手自身の人柄の影響が、ファンの心一人一人に繋がっている証となる結果なのか…。正しく金メダル級に値する出来事であろう。(b^-゜)

平成34(2022)年11月30日を以って、完全終了か? ( ̄□ ̄;)

久々のOwnd Blogの更新であるが、このタイトル表記を見て「一体何が終わるのか?」(  ゚ ▽ ゚ ;) と非常に気にされている読者の皆様も多い事と思うが、これからお話しする事はこれらに該当心当たりのある方は、真摯な気持ちでお読み頂ければ幸いである。(=◇=;)『平成34(2022)年11月30日』このキーワードであるが、管理者と同じアマチュア無線のライセンスを所持されている諸氏ならご存知の通り、旧スプリアス機器の無線機全てが新しい電波法に基づく新スプリアス規定規格に合致していないものは、翌同年の12月01日以降からは、電波法違反の対象となり運用が禁止されるのである。( ̄ー ̄;スプリアスとは指定周波数枠からはみ出る、所謂洩れ電波と言っても良いだろう。嘗ての地上波のアナログテレビ放送の場合は、VHFやUHFによるチャンネル送信の場合、必ず1ch毎に空きチャンネルがあった。奇数配列または偶数配列のチャンネル番号だったり、またVHFのLowバンド帯(1~3ch)、VHFのHighバンド帯、UHF全バンド帯によってチャンネル配列も地域によって混信が起きない様に配列されていた。しかし平成24(2012)年03月31日を以って地上波アナログ放送は完全停波し、13chから52chまでのデジタル放送へ完全移行化した。これを手始めにBS放送のアナログ放送も完全終了化された。つまりこれらはアナログ電波(放送関連、AM及びFM放送を除く)による通信関係機器が、タイトルの表題通り出来なくなる最終デッドラインの布石なのである。(=◇=;) もっと事細かく言えば、総務省所管に当る法律である、電波法内にある無線通信規則(RR)の改正を受け、平成17(2005)年12月01日からはスプリアスに対する規制が一段と強化される法律が既に施行されている事である。つまり平成19(2007)年11月30日を起点にそれ以前に製造された通信機器は、平成34(2022)年12月01日以降からは、全て使用不可となる訳である。(但し、アマチュア局の場合既に免許を受けている旧スプリアス機器は、スプリアスを実測し新スプリアス規格に適合していれば、書面を以って管轄の総合通信局に届け出る事によって、平成34(2022)年12月01日以降も使用出来る。)「何だ、アマチュア無線をやられている方だけの事で、我々には関係のない話ではないか?」(-。-;) と思うかも知れないが、ここから本題に入るとしよう。(^-^)/ この平成34(2022)年11月30日問題。前出の記述通り、平成19(2007)年11月30日以前に製造された通信機器を使っている、全ての官公民のアナログ関連の無線機器関連がこの規定に引っ掛かると言う事である。( ̄□ ̄;) 例えば警察無線、防災無線、鉄道無線、放送無線、通信関係の無線機器類は既にこれらに対応した、デジタル化を済ませている。そしてここから一番重要な話となる。(゜д゜;) 読者の皆様が必ず持っているモバイル通信機器(携帯電話)。これも対象になっているのである。( ̄□ ̄;) 皆様が普段使われている大手携帯会社(NTT DoCoMo、au&KDDI、SoftBank)等で、特に従来の第3世代携帯(3G)ガラケーをまだ使われている方も少なからずいらっしゃる事と思う。(管理者もその1人。) そのガラケーも以前から消滅する時期がいつなのか、確定出来ていない時期があった様だが、どうもタイトルの表題辺りが最終的タイムリミットになっている様である。Σ(~∀~||;) 読者の皆様の中でもこれまで使われていたガラケーが、携帯会社の都合による周波数提供の終了で代替機種への変更を余儀なくされた方も多い事だろう。只、3G携帯自体も平成19(2007)年11月30日以前に製造されたものや、12月01日以降に製造された物など跨って出ているガラケーもある事から、全て終了となるかどうか微妙な線も残っているが、何れにせよこれらは大手携帯三社が最終的にどの様な判断を下すかで、今後の動きが決められる事となるだろう。Σ(=°ω°=;ノ)ノ 今現在、スマートフォンを含めた第4世代携帯(4G)が主流になりつつある。当然の事ながら今現在、TwitterやInstagram等が出来る機種は、新スプリアス規格機器に入っているので、機種交換の必要性はない筈である。(但し、機種によって違う場合があり、旧スプリアス規格に引っ掛かる機種は、後日携帯会社から機種交換の連絡通知がある。) まだ正式な決定通知は大手携帯三社では出ていないが、これを見越して他の業界関連では、既に連動した動きが出始めている。クルマを使われている方でFM放送電波を利用した道路交通情報を提供している『VICS(ヴィックス)』。現在、新旧二つの方式で配信されているが、これも平成34(2022)年03月31日。つまり平成33(2021)年度の年度末を以って統一される事が既に決まっている。\(゜□゜)/ また長年使われていたPHSや簡易無線に関しては、デジタルに改修しないと使用不可の状態となり、現時点ではデジタルに改修するかどうか微妙な状況である事から、最悪の場合完全終了となる公算が大きい様である。Σ(・ω・;||| ではなぜ今頃になってこうなって来たのか? 本来であれば各国標準に合わせて、電波資源の有効化及びデシタル化推進によって、占用周波数の狭帯(ナロー)化を促進させ、占用周波数幅の新たなる確保をするため、10数年以上も前から実施する予定であったが、通信関係機器を所持している各無線従事者やそれらを製造している業界の根強い反対や時間的猶予がない事もあって、そう言った国内諸事情等の理由により、これまで先送りして今日に至ってきたのだ。しかし先送りのデッドラインは目の前に迫りつつあり、また国際電気通信連合(ITU)との国際的約束事つまり取り決めにより、最早これ以上の先送りが出来ない状況になって来ているのである。((>д<)) まだ表立った動きはないものの、一連の事態を想定して各携帯会社では、第5世代携帯(5G)への通信機器の取り組みも始めている様である。管理者の立場としても、大手携帯三社及びモバイル関係に従事している関係会社は、そういった混乱を防ぐ意味でそろそろ表立って広報PRを出しても良いのではないかと思っているのだが、動きがいまひとつの感が否めない。(-"-;A 電波関連に詳しい方達にしてみれば「もう情報は入手済み」かも知れないが、今まで知らなかった方達にとっては『寝耳に水』で、驚きの何ものかも知れない。(°д°;) しかし、以前から何かとざわついていたこのウワサ。東京五輪が終わったその2年後、現実的に訪れる日が来そうである。(・_・;) その際、国内に於ける通信関連環境はどの様に変貌を遂げて行くのか、事態の推移を注意深く見守って行く必要があるだろう。(゚ー゚;

ピョンチャン (平昌) 五輪 フィギュアスケート男子・羽生結弦選手 王者の貫録で金メダル 66年ぶりの連覇!ヘ(゚∀゚*)ノ

4年に一度の冬の祭典、冬季五輪が韓国のピョンチャン(平昌)で行われた。大会第9日の02月17日、フィギュアスケート男子フリーで、本県(宮城県)出身の羽生結弦選手(23)=ANA、宮城・東北高=が206.17点をマークし、ショートプログラム(SP)との合計317.85点で優勝し、男子で66年ぶりの2連覇を達成した。また初出場の宇野昌磨選手(20)=トヨタ自動車=も合計306.90点で2位になり、フィギュアで初めて複数の日本選手が同時に表彰台に立った。羽生選手はこの日今大会の日本選手団の金メダル第1号で、日本の冬季五輪の「金」は通算11個目を獲得した。羽生は前回初出場の2014年ソチ五輪でフィギュア日本男子初の金メダルを獲得し、世界選手権を2014、2017年に制し、グランプリ・ファイナルは2016年まで4連覇。ショートプログラム、フリー、合計の歴代最高得点を何度も塗り替え、世界をリードしてきた。昨年11月に右足首を痛めた影響で、平昌五輪出場が危ぶまれたが、ピンチを乗り越え、再び栄冠に輝いた。前日02月16日のSPでは、ジャンプやスピンなどを合計した技術点も、演技点もトップ。進化を続けるスター選手は右足首故障から見事に復活し、偉業を達成した。本県出身でもあり、66年ぶりの連覇と言う頂点に立った、02月17日。宮城県内は歓喜と感動と涙に包まれた。けがを乗り越えて掴んだ2大会連続の金メダル。東日本大震災の被災地では「パワーを貰った」と感謝の声が広がった。震災の津波で店舗が被災し、平成26(2014)年06月に再建した石巻市内の飲食店を訪ねた羽生選手は、石巻五目焼きそばを平らげ、「とても美味しかったです」と喜んだという。店主は「被災は大変ショックだったけれど、良い事もあった。羽生君は私達にパワーを与えてくれた」と感謝を口にした。羽生選手の祖父の出身地である登米市でも喜びが広がった。同市の地区センターでは、住民有志約50人がスクリーンで実況中継に見入り、金メダルに「万歳」の声を上げた。旧米谷工高(現 登米総合産高)で同僚教師だった男性(81)は「演技を終えてから立てなくなるぐらい力を出し切っていた。けがの心配を微塵も感じさせなかった」と戦いぶりを讃えた。JR仙台駅のパブリックビューイング(PV)で演技を見守った大崎市の男性(24)は「自分と同年代の羽生選手の活躍は刺激になった」と興奮した様子。仙台市太白区の市体育館であったPVで声援を送った同区の女性(75)は「生涯忘れられない日になった。また仙台で優勝パレードをして欲しい」と涙を浮かべて語った。金メダル獲得から一夜が明け、翌02月18日に平昌で記者会見した羽生選手は、「ソチ五輪の時と違って非常にたくさんの思いを込めて金メダルを取りにいった。思い描いていたメダルを掛けている事が本当に幸せ。(66年前に2連覇した)バットンも連覇に向けて応援してくれた。3連覇に挑むか今は分からないが、このタイトルを嬉しく思う。」と語った。故障中の心境について羽生選手は「スケートを辞めなきゃいけなかったらどうしようと思っていた。それだけスケートに懸け、色々なものを捨てた。本当は嫌われたくないが、喋るほど嫌われるし、色々な事を書かれる。只、僕が作ってきた歴史は何一つ変わらない。誇りを持って今後の人生、金メダリストとして全うしたい。休養するかどうかは足首次第。注射が打てない部位で、痛み止めを飲まなければジャンプを跳べない状況だ。治療の期間が欲しい」と語った。今後の事について羽生選手は「スケートを辞める気はまだない。モチベーションは4回転アクセルだけ。アクセルジャンプを得意とし、大好きでいられることに感謝しながら習得を目指したい。」と語り、「まだ英語が下手くそだし、もっと勉強しなきゃいけない事もある。世界中を回りながらスケートで、本気で1位を目指している人を手助けしたい」と、引退後のプランについても語った。前回のソチ冬季五輪、今回のピョンチャン冬季五輪で連覇を果たした羽生 結弦 選手に対し、宮城県は県民栄誉賞を授与すると表明。宮城県議会も議長特別表彰を贈呈する方向で調整に入った。村井 嘉浩 宮城県知事は「明るい話題を届けてくれた。心からお祝いしたい」と偉業を讃え、郡 和子 仙台市長も特別表彰「賛辞の楯(たて)」を贈ると共に、本人の意向を踏まえて快挙を祝うパレードを実施する方向で、今後宮城県、仙台市、宮城県警等と協議を進める事になった。因みに羽生選手への県民栄誉章授与と賛辞の楯の贈呈は、何れも前回のソチ冬季五輪に続き2度目となり、実現するとなれば宮城県、仙台市にとっては史上初の出来事になる。関係者によると「233万宮城県民と108万仙台市民と共に喜びを分かち合うため、盛大にパレードを実施したい。」と述べた。66年ぶりとなる冬季五輪連覇という歴史的偉業を成し遂げ、宮城県・仙台市、東北出身者として、国内及び世界を熱狂させたフィギュア界の王者の金メダルパレードが、再び杜の都・仙台の地で見られる事になりそうである。